東洋思想には「朱子学」と「陽明学」という2つの対立する学派があります。
この2つの学派の対立は、幕末維新を動かした思想的エネルギーとも重なるものがあります。
そしてなんと、
この2つの思想的エネルギーは、AI時代の私たちが直面している「知識のあり方」とも驚くほど似ているんです。
朱子学が築いたのは「権威による知識体系とその習得」です。
一方、陽明学は「知は行動と一体でなければ意味がない」という実践の哲学です。
そしてAIが登場した現代、私たちの学びもまた――
「権威に依存する知」か?それとも「行動に直結する知」か?
――その選択の岐路に立たされています。
朱子学──権威化する知
朱子学は、中国南宋時代の思想家・朱熹(1130–1200)によって大成された儒学の一派です。
その核心は「格物致知(かくぶつちち)」といい、すなわち『事物をつぶさに観察し、そこから普遍的な理(ことわり)を探究する姿勢』にあります。
朱子学は、もともとは現場主義的な学問であり、知識は実際の経験や自然との対話を通じて磨かれるべきだ、とされていました。
ところが、この学問が中国の国家体制に組み込まれると、その性質は大きく変質していきました。

朱熹の「格物致知」と現場主義のはずが…
朱熹自身は「万物に内在する理を探究せよ」と説きました。
つまり、学ぶ者は書物だけでなく、自然や社会に直接向き合い、そこから知恵を得ることが求められていたのです。
本来ならば、この理念は「行動知に近い実践哲学」として働く可能性を秘めていました。
しかし、後世の中国社会において「理」という抽象的な概念ばかりが重視され、机上での解釈競争へ成り下がってしまうことになります。
科挙による知識の暗記化・形式化
宋の時代以降、朱子学は科挙(官僚選抜の国家試験)の公式イデオロギーに採用されます。
つまり朱子学の思想に合わせた「正解」を量産することが評価されることになります。
これにより「格物致知」の実践性はほぼ失われ、受験者は朱熹の注釈を暗記・再生することに専念することになります。
ここで学問は現実を探究する営みから『正しい答えを復唱する作業』へと変質したのです。
こうして朱子学は「知識の体系化」と「形式化」を進めたものの、同時に人間の創造性を縛る枠組みにもなってしまったんです。

秩序維持の学問としての朱子学
やがて朱子学は、単なる学問ではなく中国における「社会秩序を維持するための統治イデオロギー」となります。
この「理に従うことが正しい」という建前は、体制への服従を正当化する論理として利用されてしまいます。
すなわち朱子学は、現場での実践知を生むどころか「権威に奉仕するための知識」に変貌してしまいました
日本の江戸幕府が朱子学を公式採用したのも、この「権威を支える知」という側面を重視したからに他なりません。
陽明学──行動する知
朱子学が国家権力と結びつくことで「権威の知」に変質していった一方、その反動として登場したのが陽明学です。
明代の思想家・王陽明(1472–1529)は、「知は行動と切り離せない」という革新的な思想を打ち立てます。
彼は、朱子学的な「理を探究するだけの学問」を批判し、人間の心と行動そのものに「理」を見いだします。

王陽明の「心即理」思想
陽明学の出発点は「心即理」──すなわち、人間の心の中にすでに「理」は存在している、という考え方です。
朱子学のように外部にある「理」を探しに行く必要はなく、むしろ『人間が日常のなかで善を行う心の働きこそが「理」の実現である』と考えました。
この発想は、内面的主体性を強調する点で革命的でした。
知行合一――行動と知識の不可分性
王陽明はさらに「知行合一(ちこうごういつ)」を説きます。
これは『知っているだけでは不完全で、行動して初めて知になる』という思想です。
たとえば「本で学んだこと」と知っていても、現実に実行できなければ、知らないことと変わらなくなってしまいます。
つまり、『知識を行動に結びつけることこそ、真の学問であり真の修養』と考えたのです。
この思想は、後に日本の幕末の志士たちの「事を成すための学問」という実践精神に転換していく土台となります。
権威主義への反逆と市井への浸透
陽明学は、朱子学が国家権力の支配イデオロギーとなったのとは対照的に、権威主義に対抗する思想として広まっていきます。
試験のための暗記ではなく、日常の行動や社会実践を重視するため、学問が市井の人々にも届きやすかったという側面も見逃せません。
そのため、士大夫層だけでなく商人・農民・武士にまで影響を及ぼし、「行動知」の思想が社会全体に浸透していく要素を持っていました。
江戸幕府と松下村塾
朱子学と陽明学の対立は、単なる中国思想の話にとどまらず、日本の近世・近代を揺るがす大きな思想的背景とも重なっています。
江戸幕府は朱子学を体制の公式イデオロギーに採用し、秩序維持の学問として機能させました。
その一方で、幕末に生まれた松下村塾(吉田松陰の私塾)は、陽明学的精神を体現する「行動する知」の拠点となり、多くの志士を輩出しました。
幕府が朱子学を体制イデオロギーに採用
徳川幕府は、長期政権を維持するために「秩序を保つ思想」を必要としました。
そこで選ばれたのが朱子学です。
朱子学は上下関係や家族・社会秩序を強調し、「忠」や「孝」といった目上の人間への礼儀や服従を基本徳目として制度化します。
これにより、朱子学は「学問」であると同時に「支配をの正当化する装置」となりました。
もちろん、朱子学が Pax Tokugawana(徳川の平和)と呼ばれる太平の世が実現に貢献したことも否定できない面もあります。
吉田松陰と松下村塾の陽明学的精神
一方、幕末の動乱期に吉田松陰が山口で開いた松下村塾は、朱子学的な権威に依存しない教育を実践します。
松陰は「実践こそ知」という陽明学的思想を体現し、学んだことを即座に社会へ行動として返す教育を行いました。
この塾からは高杉晋作・伊藤博文・木戸孝允など、後の維新を担う多くの人材が輩出された。

佐久間象山の「西洋芸術」
幕末の歴史において、吉田松陰の師にあたる佐久間象山も重要な役割を果たしています。
佐久間象山は「東洋道徳、西洋芸術」と喝破し、陽明学的に「役に立つ知はすべて学べ」という姿勢を示しました。
佐久間象山の言う「芸術」とは広義での “art” と理解できます。
- fine art
⇒ 美術(美を目的とする術) - mechanical arts
⇒ 技術(機械・工学・測量・航海術など) - martial arts
⇒ 武術(戦いのための技法体系) - liberal arts
⇒ 学芸(人間形成のための知の体系)
このように「art=術、技」という理解が可能です。
つまり佐久間象山は「西洋の知識・技術の体系そのもの」を指して「芸術」と呼びました。
そこには当然、西洋列強から日本を守るための「軍事術(砲術・戦術)」も含まれていました。
つまり西洋列強から日本を守るための近代化への「行動知」として西洋の学問を積極的に吸収することを推奨したのです。

明治維新=行動知の爆発
幕末から明治維新にかけて、日本は未曾有のスピードで近代化を進めました。
その思想的背景にあったのが、まさに 陽明学的「行動知」 の精神といえます。
明治維新の志士たちにとって、学問の価値は「権威」ではなく「実効性」にありました。
当初は薩摩藩、長州藩も「攘夷(外国を打ち払う)」というスローガンのもと、西洋人に対する武力行動をとっていました。
しかし西洋の学問の有用性を理解し、両藩とも大きく方針を転換します。
『西洋の知識であろうと、日本の伝統であろうと、使えるものはすべて吸収し、即座に実行に移す。』
この柔軟さこそが、陽明学的「知行合一」の体現であり、明治維新を可能にしたエネルギーと言えるでしょう。
維新後、日本は西洋の軍事・科学・法律・教育を次々と導入しました。
その際「これは西洋のものだから」と排除するのではなく、「役立つなら取り込む」という徹底的な実用精神で対応しました。
この姿勢は、朱子学的「権威を守るための知」とは正反対であり、西洋芸術を取り込んだ陽明学的な「実践知」の勝利と言えると思います。
清国の朱子学体制と近代化の挫折
当時、アジアの大国であった清国もまた西洋列強と直面することになります。
ですが、その内部構造は朱子学的秩序に深く縛られており、科挙によって「正統」とされた朱子学の枠を外れる知は、体制にとって危険な異端とされていました。
結果として、外部の技術や制度を取り入れる柔軟性を欠き、「中体西用」と呼ばれる近代化は内部抵抗に阻まれうまくいきませんでした。
日本も幕府が朱子学を体制に組み込んでいたが、松下村塾などの陽明学的実践が「外の知を取り込む」柔軟性を生み出します。
知識を「権威のため」に使うのか、「行動と効果のため」に使うのか──この理念の差が、近代化の成否を分けたといえるでしょう。
日本の明治維新は「たまたまの幸運」でも「西洋の受け売り」でもなく、陽明学的精神が下地となって可能になった行動力の爆発と言えると思います。
自然言語AIと奇兵隊戦術
ChatGPT-4o という生成AIの登場は、従来の技術革新とはまったく次元が異なります。
なぜなら、コンピュータサイエンスの専門的スキルがなくても、自然言語でAIを運用できるようになったからです。
さらに英語でなくとも、誰もがそれぞれの母語を使ってAIにアクセスできるという点も挙げられます。
このAIの低コストでの全世界への急速な普及は、まさに幕末の日本の港に黒船が現れたときの衝撃に匹敵します。
もうすでにインターネットは、小さな学びや実践を結びつける「市井の知のネットワーク」を形成しています。
そこに大規模言語モデル(LLM)を基盤とする生成AIが加わり、知の共有は動的で相互的な学びの生態系へと大きく進化しました。
AIは、言語情報によって世界中の知識・文化・経験をひとつの意味空間に統合してしまったのです。
それはすなわち、迷走から抜け出せない既存の教育の「権威の知」に対抗しうる新しい社会基盤の誕生でもあります。
19世紀の日本人にとって、黒船は「未知の力との遭遇」でした。
彼らは恐れながらも、ただ拒絶するのではなく「その未知を取り込み、自らの力へと変える姿」を我々に見せてくれました。
まさにそれこそが、奇兵隊を生んだ発想――「外から来た衝撃を、内なる行動知に変える力」だったのです。
高杉晋作の「奇兵隊」にみる実践知の象徴
高杉晋作は、身分にとらわれない西洋式の部隊である「奇兵隊」を作ったことで知られています。
さらに高杉自身も、上級武士であったにもかかわらず、あえて「動きやすい」という現場感覚を優先して「足軽と同じ装い」で戦ったと伝えられます。
これは「身分や権威に縛られず、使えるものを使う」という陽明学的精神の象徴といえるでしょう。
その高杉率いる奇兵隊を中心に、身分制度を廃した長州藩は破竹の勢いで幕府軍を撃破していきます。
それは能力ではなく身分や家柄で動いていた幕府軍とはまったく異なる発想でした。
まさに戦いにおいては身分よりも「実効性」が重要である――
奇兵隊の働きは、陽明学的思想の行動化された形だったのです。
奇兵隊は当時としては極めて先進的な「散兵戦術(skirmish tactics)」を採用していました。
それは、個々の兵が現場での状況判断に基づいて動き、柔軟な連携で全体を機能させる戦い方でした。
つまり、「身分制度」や「一方的な指揮系統」に頼らず、個々の判断力とコンビネーションで戦う仕組みだったのです。
この分散的で柔軟な戦術こそが、後にAI時代の「自律的学びのネットワーク」に通じます。
学ぶ者一人ひとりが状況を読み取り、行動し、他者と連携して知を生み出す――
それはまさに奇兵隊に体現される陽明学的“行動知”の現代的リバイバルといえるでしょう。

AIとともに学ぶ「未来型奇兵隊」
かつて奇兵隊が「身分を超えて戦力化」したように、いまや学歴や肩書きに関係なく、世界中の人々が学び・創造する環境は整いました。
AIは、この学びを個人レベルで最大限に活かすパートナーになるポテンシャルを持っています。
幕末に吉田松陰が小さな私塾「松下村塾」で志士を育てたように、現代ではAIとオンライン環境が新しい松下村塾となり得るのです。
現実に、農業・教育・医療・芸術など──あらゆる分野で、AIが「知識 → 行動 → 効果」のサイクルを加速させています。
行動に直結する知が、市民レベルで普及しはじめた今こそ、AI時代の「知行合一」が本格的に始まったといえるでしょう。
幕末の人々が黒船の衝撃を「行動知」へと転化したように、現代の私たちもAIを「行動のための知」として使い始めています。
古い価値観に基づいた肩書きや身分に頼らずとも、AIと自然言語を武器に未来を切り拓く──それが「未来型奇兵隊」の姿です。
おそらくAI時代の真の革命は、専門家や権威の指示で生まれてくるものではないでしょう。
それは、この「未来型奇兵隊」のメンバーである私たち一人一人の行動が作り上げる未来の姿になるはずです。
教育とは本来、“知を行動に変える力”のはずです。
AI時代とは、
朱子学的な「過去を再生産する知識」ではなく、
陽明学的な「現実を変える力を持つ精神」が自由に広がっていく転換期だった
と、未来の人々は語るかもしれません。
日本がその潮流に気づき、AIのことを“外来の脅威たる黒船”ではなく“未来型奇兵隊のパートナー”として迎え入れられるかどうか。
それが、次の世代の知のあり方を決めることになるでしょう。
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