もしかすると海外の方と話していて、こんな質問を受けることがあるかもしれません。
What religion are you?
(どんな宗教を信じているの?)
おそらく、
次のように答えらる方もおられると思います。
I am atheist.
(無宗教です)
これは日本語としてはとても自然に聞こえますし、
『特定の宗教を信じているわけではない』という日本人の感覚を、うまく表しているようにも見えます。
ところが、そのまま英語に翻訳された場合、思わぬ誤解を生むかもしれません。
宗教は価値観や倫理観とつながる
そもそも宗教についての質問は、必ずしも「所属グループ」を尋ねていないこと可能性があります。
それよりもむしろ、
特に英語圏では、次のような意味合いの質問かもしれません。
- あなたは、人間として何を大切にしていますか?
- あなたの倫理観や価値観は、どこからくるものですか?
つまり、
What religion are you?
⇒ あなたはどんな人間ですか?
と尋ねる問いでもあるのです。
これは英語に限らず、
宗教が倫理観や世界観の中心に置かれる文化圏では、この傾向が広くみられます。
その文脈を知らずに「私は無宗教です」とだけ答えてしまうと、
この人は人生で何を大切に生きているのだろう?
という疑問を相手に与えてしまうこともあります。
実際に、明治期の教育者である新渡戸稲造さんは、
著書の「武士道」の序文で M. de Laveleye というベルギー人と宗教について話していて、こんな質問を投げかけられたと書いています。
Do you mean to say you have no religious instruction in your schools? How do you impart moral education?
『日本人は学校で宗教に基づく指導をしないといっているのか?どうやって日本人は倫理教育を実施するのか?』
Bushido the Soul of Japan
このような誤解を招かないように、
- 日本語の「無宗教」
- 英語の “atheist“
をまず整理しておきましょう。
「無宗教」と「無神論」を区別する
日本語の区別が分かりにくい「無宗教」と「無神論」は、
英語の文脈では、全く別の概念として扱われます。
まず「無神論」にあたる英語は atheism です。
そして「無神論者」が atheist となります。
この atheism は、構造を見ると意味がはっきりします。
- a-(否定)
- the-(神)
- -ism(思想・主義)
つまり atheism とは、
神(特にキリスト教の God など)の存在を否定する思想
という意味です。
ここで重要なのは、
atheism が「宗教に関心がない」や「信仰が薄い」という意味ではないという点です。
英語圏の文脈では、atheism はしばしば
- God の存在を否定する
- 宗教を前提とした倫理観や価値感から距離を取る
- 宗教的な権威そのものを認めない
といった、明確な立場をとることとして受け取られます。
長らくキリスト教文化圏では、
宗教は世界観・倫理・法律などと強く結びついてきました。
そのため atheism という言葉は、
God を信じない人
という意味を越えて、
God を中心に作り上げられた世界観・価値観から距離を取る人
というニュアンスを帯びることがあります。
一見すると論理が歪んで見えるかもしれませんが
無神論は、ときに原理主義に近い思想とつながる可能性もあります。
その理由は、
キリスト教が「唯一絶対の正しさ」を掲げる一神教(monotheism)であること関係しています。
キリスト教文化圏で生まれがゆえに atheism もまた、キリスト教に対し否定的な立場をとる傾向を持ちます。
あえて極端に言えば、atheism はしばしば
キリスト教を全否定する原理主義的思考
として理解されることがあります。
このため、英語圏では
- non-religious
(特定の宗教に属していない) - irreligious
(宗教的でない)
といった表現をあえて使う人も少なくありません。
そのため日本語でも、
- 無宗教(non-religion)
- 無神論(atheism)
を区別を知っておくといいと思います。
そしてここから、
もうひとつの立場である agnosticism(不可知論) をご紹介します。
agnosticism(不可知論)
『神は存在するのか、しないのか?』
一神教の影響の強い英語圏では、
宗教的な議論は、しばしばこの2択で進められます。
けれども、この問いそのものからあえて距離を取る立場も存在します。
それが agnosticism(不可知論) です。
agnosticism は、語源をたどると意味がはっきりします。
- a-(否定)
- gnosis(知識)
つまり、
(God のような本質的存在について)人間はなにも知ることができない。
という立場です。
つまり
- 神が存在すると断定もしない
- 神が存在しないと断定もしない
というのが不可知論者の立場です。
これは一見、あいまいな立場のように見えるかもしれません。
しかし実際には、agnosticism は「態度を保留している」というより、
『人間の認識能力そのものに慎重な立場』だと言えます。
つまり、
- 何が分かっているのか?
- 何が分かっていないのか?
- どこからが、人間の理解を超える領域なのか?
こういった理解の線引きを意識的に行っているんです。
もしかするとこの不可知論の感覚は、多くの日本人にとって直感的に理解しやすいものでかもしれません。
神様がいる確信はないけれど、自然や命には、言葉にできない何かが宿っている。
だから断定はしないけれど軽々しく否定する気にもなれない。
こうした感覚は、atheism よりも agnosticism に近いと思います。
とはいえ、カンタンに “I am agnostic.” と言えばよいという話でもないんです。
agnosticism もまた、英語圏では哲学的・思想的な立場として理解されます。
そのため、文脈によっては
宗教や信仰について、かなり意識的に距離を取っている人
という印象を与えることがあります。
つまり、
- atheism
⇒ 信仰への強い否定が誤解を生みやすい - agnosticism
⇒ 距離をとっていることが強調されすぎる
という、また別のズレが起こり得るのです。
ここで改めて見えてくるのは、
日本人の「無宗教」という自己認識が、価値観や倫理観を、あえて一つの教義にまとめていない。
という点です。
では、日本人の信仰や倫理観は、いったい何を軸に成り立っているのでしょうか?
ではここから「無宗教」と呼ばれてきたものの正体について、
日本の歴史を振り返りつつ、神道・仏教・儒教が重なる日本の宗教観として、見ていこうと思います。
🌈日本の宗教は「神道・仏教・儒教」の融合
そもそも日本の宗教観は一つの教義にまとまったものではありません。
むしろ、
- 神道
- 仏教
- 儒教
といった複数の思想が、生活の中で重なり合いながら共存してきたものだと言えます。
この「混ざり合い」こそが、日本の宗教観の最大の特徴です。
つまり日本人の信仰や倫理観は「たった一人の神」や「誰もが読むべき一冊の本」などからは見つけることができないのです。
神道と仏教は融合している
日本の古来の信仰は、自然崇拝から発展した「神道」です。
そして、「仏教」が伝来してしばらくすると神道と仏教は共に歩み始めます。
明治時代になるまで1000年以上も、神道と仏教は厳密に区別されていませんでした。
神社に仏が祀られ、寺に神が祀られる。
いわゆる「神仏習合」と呼ばれる形が、ごく自然に存在していたのです。
これは、
- どちらが正しいか?
- どちらを信じるべきか?
を問わない文化だった、ということでもあります。
神道は、自然や土地、人の営みに宿るものへの畏敬を基盤とし、
仏教は、苦しみや生の在り方を見つめ直す思想として受け入れられてきました。
両者は競合するものではなく、
お互いの得意分野を担当しながらとして生活の中に溶け込んでいたのです。
祖先崇拝と儒教
さらに、日本人の倫理観を考えるうえで欠かせないのが、中国から伝わった儒教です。
仏壇に置かれる位牌や、先祖を祭る形式は、中国思想の影響を強く受けています。
ここでは、
- 親を敬う
- 年長者を尊重する
- 家や共同体を大切にする
といった倫理が、宗教というより生活規範として根づいてきました。
祖先崇拝そのものは世界中のどこでも見られるものですが、
日本では特に、江戸時代の朱子学(儒教の一派)価値観を通して、生活の中で自然に身につくように溶け込んでいきました。
武士道・修験道・陰陽道
ステレオタイプな日本の精神性と言えば “samurai” を忘れるわけにはいきません。
そして、この精神性の土台となる「武士道」もまた、単一の宗教から生まれた思想ではありません。
そこには、
- 禅の精神
- 儒教的な忠義や責任感
- 神道的な清き心
などが複雑に絡み合っています。
また、修験道に見られる山岳信仰は、神道・仏教・自然崇拝が融合したものです。
そして風水にかかわってくる、陰陽道には、道教の世界観や方位思想が取り入れられています。
こうして見ていくと、日本の宗教文化は一貫して
「混ざらないはずのもの」をあえて混ぜてきた歴史
だと言えるかもしれません。
自然の関係性が作り出す曼荼羅世界
多くの日本人が言う「無宗教」とは、
理由を厳密に説明できなくても、
伝統や習慣として宗教的な行為と関わることはある。
同時に何か一つを絶対視しているわけではない。
という感覚に近いのではないでしょうか。
初詣に行き、お盆に先祖を迎え、結婚式は教会で、葬儀は仏式で行う。
こうした振る舞いは、
「信じているからやる」というよりも、関係性を保つために続けてきた行為だと言えます。
ここで、
一神教的な宗教観との決定的な違いが見えてきます。
キリスト教やイスラム教には、信仰は「神との契約」という発想があります。
一方、日本文化の底には、自然崇拝(神道)と縁起(仏教)が見えてきます。
それには
- 物事は単独で存在しない
- すべては関係性の中で成り立っている
という宇宙物理学や生物多様性そのものと言える世界観です。
- 自然の中ですべてがつながりあって存在する。
- それらの関係性そのものに意味がある。
この自然の中にある存在全ての「縁(つながり)」が生み出す曼荼羅世界です。
すべてがつながっているなら「境界」や「区別」はそもそもなくてもよいのですから。
⭐Closing Thought
ここまでお読み下さった皆さん、ありがとうございました😌
世界の宗教や思想は多様ですが、その多くは緊張とバランスの上に成り立っています。
融合できない多様性は、ときには「混乱と対立」を引き起こすこともあります。
私の個人の感覚だと、
日本の本来の思想と一番相性が悪いのは「絶対に正しい固定した価値観」かもしれません。
では最後に、
John Lennon(ジョン・レノン)の言葉でブログの締めといたします。
I believe in God, but not as one thing, not as an old man in the sky. I believe that what people call God is something in all of us. I believe that what Jesus and Mohammed and Buddha and all the rest said was right. It’s just that the translations have gone wrong.
『私は God を信じているが、それはただ唯一なる存在としてではないし、空の上にいる父親のような存在としてでもない。みんなが God と呼ぶものは我々みんなの中にこそ存在するものだと私は信じている。 イエス、ムハンマドや仏陀と他のすべての預言者や宗教家たちが言ったことは正しかったと私は信じている。ただいろいろな翻訳がうまれてしまって、みんな同じことをいっていることに気付けていなかっただけなのだ。』
John Lennon
ではまた、別の記事でお会いしましょう🫡
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志塾あるま・まーたは、楽しみながら英語を広く深く学べるオンライン英語塾です。
高校を半年で中退した塾長が、アメリカ留学中に人工言語エスペラントと出会ったことをきっかけに、ゼロから“世界で通用する英語力”を習得できました。
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